【令和八年】秋の彼岸合同法要を厳修いたしました。
一光寺では秋の彼岸法要を無事に厳修いたしました。
お参りくださった皆さま、ご供養をお申し込みくださった皆さま、供物などを送ってくれた皆さまも、ありがとうございました。

ただ、彼岸法要が終わったからといって、お彼岸が終わったわけではありません。
秋のお彼岸は、秋分の日を中日として前後三日、全部で七日間あります。
一光寺でも彼岸明けまで、引き続きご先祖さまやご縁ある諸精霊の供養を続けてまいります。
「そもそも、なんでお彼岸にご先祖さまを供養するんやろ?」そう思ったことはありませんか?
お盆であれば、ご先祖さまを迎え、そして送り出す。
という日本各地の伝承があります。
しかし、お彼岸は少し意味が違います。
昔の人々は、西へ沈んでいく夕日を見ながら、その向こうにある仏さまの世界へ心を向けました。
仏教では、私たちが迷いながら生きているこの世界を「此岸」。
迷いを越えた悟りの世界を「彼岸」と呼びます。
また浄土教では、西方には阿弥陀如来の極楽浄土があると説かれてきました。
『観無量寿経』にも、沈む太陽を観じながら西方へ心を向ける修行が説かれています。
春分、秋分の頃には太陽はほぼ真西へ沈みます。
だから昔の人は、夕日の向こうに西方極楽浄土を思い、そこへ旅立った亡き人々にも思いを向けたのでしょう。
◆日本の古い彼岸法要の「亡き人を鎮める祈り」
そして、日本のお彼岸の歴史をさらに古くたどると、非常に興味深い話があります。
平安時代初期のことです。
早良親王という皇族がおられました。
藤原種継暗殺事件への関与を疑われ、皇太子の地位を追われ、配流される途中で亡くなられます。
その後、朝廷ではさまざまな不幸や災いが続きました。
当時の人々は、「これは早良親王の御霊によるものではないか?」と考えるようになります。
そして早良親王には、のちに「崇道天皇」という追号が贈られました。
大同元年、806年。朝廷は諸国の国分寺に命じ、春と秋にそれぞれ七日間、崇道天皇のために『金剛般若経』を読誦させました。
これは現在の彼岸会そのものの始まりだったと断定できるものではありませんが、「春と秋に七日間、亡き人のために経を唱えその御霊を慰める」という非常に古い形が、すでに平安時代初期に存在していたことがわかります。
◆供養とは亡き人を忘れないこと
昔の人は、亡くなった人をただ「もういない人」として切り離してはいませんでした。
経を唱え、花を供え、食べ物を供え、その人のために功徳を積み、静かに手を合わせました。
時には、亡き人が安らかであるように。
時には、迷いや苦しみから離れることができるように。
そして時には、御霊を鎮め、この世とあの世の双方が穏やかであるように。
そう願って祈ってきました。
形は時代によって変わっても、亡き人を思い、仏さまへ祈り、功徳を回向する。
この心は、今も変わるものではないと思います。
◆彼岸明けまで
彼岸法要は終わりました。
しかし、ご供養はまだ続いています。
一光寺でも彼岸明けまで、お申し込みいただいたご先祖さま達のために引き続き供養を続けます。
皆さまも、お仏壇に手を合わせる。
お墓へ参る。
お経を一巻唱える。
亡くなった家族を思い出す。
そして、誰かに親切をする。
そのような小さな善行でも構いません。
「この功徳をご先祖さまへ!」と回向してみてください。
昔の人が西へ沈む夕日を見て、その向こうにある「彼の岸」を思ったように、私たちもこのお彼岸には少しだけ立ち止まり、亡き人へ心を向けてみてはいかがでしょうか?
そして同時に、自分自身もいつの日か彼岸へと渡る身であることを思い、今をどう生きるのか。
そこまで考えることができれば、お彼岸は単なる年中行事ではなく、私たち自身の生き方を見つめる大切な仏道修行になるのだと思います。
彼岸明けまで、まだ少しあります。
ご先祖さまへのご供養を続けながら、私たち自身も一つでも善い行いを重ね、少しでも此岸の迷いから離れられるように。
ご先祖さまと共に、私たちも一歩ずつ彼岸を目指して、共に精進してまいりましょう。

